事例:バイク事故の彼

 セラピストのTさんは,19歳の青年Aさんを担当している。Aさんはバイク事故による頭部外傷で,重度の身体障害と言語障害がある。Tさんは,最近Aさんが自分の名前を前よりもはっきり言えるようになり嬉しい。Aさんのガールフレンドが見舞いに来た。ガールフレンドはリハビリテーション室でAさんを見つけることができなかった。そしてAさんの変わりように驚き,泣き出してしまった。TさんはAさんの最近の進歩をガールフレンドに話したが,泣き続けるばかりだった。Aさんは,「あー」と声をあげたが,彼女を認識しているかどうかはわからない。Tさんは自分のしているセラピーに意味があるのかと悲しくなった。


Tさんの悩み

 自分のセラピーが正しいのか,わからない悩みです。

倫理原則で考える

 正しさの判断の基本は,当事者の自律性が尊重されているかどうかです。ところが,当事者である青年Aさんの意思はわかりません。

 Tさんはガールフレンドが泣き続けることに困っています。これは,彼女に害を与えた(無加害に反した)ことによる苦悩です。

義務論と結果主義で考える

 Tさんは重度障害がありますが,わずかずつ回復がみられます。回復を助けることは人としての義務です。

 Tさんの行動によって得られる結果は何でしょうか。健康な19歳だったAさんは事故で多くを失いました。名前を以前よりはっきり言えるようになったという結果は,失ったものを取り戻したり,新たな価値を生み出すようなプラスとなるでしょうか。変わり果てた彼の姿に絶望する彼女の登場で,マイナスがさらに増えたようです。


事例:酒好きの同僚

 セラピストのTさんの同僚のXさんは,毎日のように酒臭い息で出勤している。同僚は長くこの職場に勤めており,他の職員とはよい人間関係を保っている。しかし,よくトイレに行ったり,水を飲んだりするために,患者をリハビリテーション室に置いたままにしている時間が長い。Tさんが上司に話すと,上司は若くて能力のあるTさんに期待しているので,リハビリテーション部門と患者のためにカバーしてほしい,そうすれば,優先的に希望する研修会への参加を認めると言われた。

Tさんの悩み

 同僚が酒を止めるようにするのが正しいとわかっているのに,それができない状況です。

倫理原則で考える

 同僚の自律的判断の正しさを信じるなら,同僚と話し合い,同僚が正しいと考えること(自律性)を尊重します。

 患者に害が及んでいるのは無加害に反するので,同僚は行動を改めるべきです。

 上司の提案は,XさんとTさんの間の公平性を欠き,Tさんに過剰労働を強いる可能性もあるので,公正に反するので応じてはいけません。

パターナリズム

 上司は,XさんにもTさんにも「よかれと思う」提案をしています。相手の意思を確かめずに善行だと思い込むことは,パターナリズムです。

結果主義

 Tさんが困った同僚に関わる時間を,自己研鑽に使い,上司の期待に応えて研修を重ね,部門全体の成果を高めることができたなら,こうした職場環境の変化がXさんの自省を促し,行動が改善したなら,上司の提案に従うことが正当化されます。結果的にプラスが,一時のマイナスをカバーするからです。